掲載されている「絵師」「歌舞伎役者名」

和心の基となる「‐相州 茅ヶ崎 柳島‐藤間家所蔵浮世絵全覧」に掲載されている絵師17名と歌舞伎役者名。
【絵師】

「‐相州 茅ヶ崎 柳島‐藤間家所蔵浮世絵全覧」で掲載されている浮世絵の絵師17名です。

初代歌川広重

寛政9年(1797)―安政5年(1858)
江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。幼名を徳太郎、のち鉄蔵、重右衛門また徳兵衛とも称した。歌川豊広の門人。一幽斎、一立斎、また一遊斎、立斎とも号した。天保4年(1833)頃「東海道五拾三次之内」を発表、風景画の名手として名をはせる。「六十余州名所図会」「名所江戸百景」なども人気を集めた。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的にも著名な絵師である。安政5年没。享年六二。

三代歌川豊国(初代歌川国貞)

天明6年(1786)―元治元年(1864)
江戸生まれ。姓は角田、名は庄蔵、のちに肖造と改める。画号は五渡亭、香蝶楼、豊国襲名後は一陽斎など。初代歌川豊国に入門し、文化(1804~18)末から文政期(1818~30)にかけて、役者絵「大当狂言之内」、美人画「星の霜当世風俗」「今風化粧鏡」などで人気を博す。合巻挿絵では、文政12年初編刊行の柳亭種彦作『偐紫田舎源氏』が好評を得て、浮世絵でも主要人物や場面を取り上げた「源氏絵」というジャンルを確立させた。弘化元年(1844)には三代豊国を襲名し、美人画「江戸名所百人美女」、役者絵「今様押絵鏡」「豊国漫画図絵」など揃物も数多く手がけた。膨大な作画量を誇り、広重、国芳ら他の歌川派の絵師と共に、江戸末期の浮世絵界を牽引した。元治元年(1864)七九歳で死去。

歌川貞虎

生没年不詳
三代歌川豊国(国貞)の門人。江戸の人。通称は与之助、または三之助。五風亭と号す。生来の左筆といわれる。文政(1818~30)から天保(1830~44)に活躍、主として合巻本の挿絵や花鳥画、美人画、役者絵などを描いた。美人画のシリーズ「東都七福詣」や「鎌倉七里ヶ浜ヨリ江の嶌遠見」、天保11年(1840)刊行の墨川亭雪麿作の合巻『洗髪柳春雨』六巻の挿絵などの作例がある。

歌川貞秀

文化四年(1807)―明治11、12年(1878・79)
江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師。横浜絵の第一人者といわれる。三代歌川豊国(国貞)の門人。本名は橋本兼次郎。初め五雲亭、後に玉蘭斎、玉蘭主人、一玉斎、玉翁などと号す。一枚絵の作画は天保(1830~1844)初期からと考えられ、美人画や団扇絵の他読本や草双紙、数は少ないが噺本や艶本の挿絵も手がける。天保年間後半からは「日本八景づくし」「大江戸十景」など、風景画も描いていった。幕末期は美人画や役者絵の他、万延・文久年間に横浜絵を多く残しており、「神名川横浜新開港図」「横浜鈍宅之図」などの他、鳥瞰による一覧図も数多く描いた。

初代歌川国輝

生没年不詳
三代歌川豊国(国貞)の門人。姓は太田、通称は金次郎。五蝶亭、新貞亭、独酔舎、一雄斎、雄斎、一泉斎、一心斎などと号す。作画期は文政(1818~30)から安政(1854~60)の頃。弘化年間までは歌川貞重を名乗り、子供絵や「教訓三界図会」など教訓絵を多く描いた。国輝と改めてからは合巻の挿絵や美人画、役者絵も手がけた。さらに安政2年(1855)以降、二代歌川国彦と改める。また、歌川芳艶と競って刺青の下絵を作った。

豊原(歌川)国周

天保6年(1835)―明治33年(1900)
姓は荒川氏、俗称は八十八。画号は国周の他、一鶯斎、豊春楼、花(華)蝶楼、一桃など。長谷川派の豊原周信に師事し役者似顔を学び、羽子板押絵の原図を制作、数奇屋河岸にあった羽子板問屋明林堂の仕事を引き受け、その役者絵は評判が良かったという。嘉永元年(1848)三代目豊国のもとに入門し、安政年間(1854~60)に入り、最初の師である豊原周信と豊国の名前を合わせた画名である豊原国周の名で作画するようになる。三代豊国譲りの筆致で多くの役者絵を描き、明治期における役者絵絵師の代表的存在となった。享年六六。

歌川国綱

生没年不詳
三代歌川豊国の門人。文政(1818~30)から文久(1861~64)にかけて活動。安政5年(1858)から万延2年(1861)刊行の合巻『全盛玉菊譚』(仮名垣魯文作)、万延元年(1860)刊行の合巻『花摘籠五十三駅』(柳水亭種清作)、文久3年(1863)刊行の合巻『源平盛桜御所染』(山々亭有人作)など版本の挿絵を多く手がけた。

初代歌川国明

生没年不詳
姓は平沢、名は辰之助。画姓として歌川を称した。一凰斎と号す。三代歌川豊国の門に入って弘化(1844~48)から慶応(1865~68)年間にかけて活動。源氏絵や役者絵を得意としており、文久年間に描かれた役者絵が比較的多く現存している。万延元年(1860)の「横浜五十鈴楼之図」や翌文久元年(1861)の「万国人物廼内魯西亜人」など横浜絵や肉筆浮世絵の作品も残している。弟は二代国明として活動した。

歌川国芳

寛政9年(1798)―文久元年(1861)
江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、武者絵の名手として名をはせる一方で、卓抜なアイディアを駆使した戯画や風刺画などを残す。寛政9年(1797)、江戸日本橋に生まれる。父は京紺屋(染物屋)を営む柳屋吉左衛門。幼名は井草芳三郎。後に孫三郎。一勇斎、朝桜楼、採芳舎と号す。師・初代豊国没後の文政10年(1827)頃に発表した大判揃物「通俗水滸伝豪傑百八人一個」が七八図を数える大評判となり人気絵師の仲間入りを果たした。「東都名所」などの西洋の陰影表現を取り入れた風景画にも優れており、美人画や役者絵、戯画にも多くの力作を残している。天保の改革(1841~43)後には、幕府を風刺した「源頼光公館土蜘作妖怪図」を発表し、他の絵師にも影響を与えた。無類の猫好きで、猫をモチーフにした戯画や、猫(他に金魚など)の顔を役者似顔で描いた作品も発表している。文久元年(1861)に六五歳の生涯を閉じた。

歌川芳艶

文政5年(1822)―慶応2年(1866)
姓は甲胡または三輪、名は万吉。一栄斎、後に一英斎と号す。日本橋の駕籠屋の子として生まれた。一五歳で国芳に入門、一七歳の時髪結床の暖簾に九紋竜と魯智深の雪中奮闘の図を描き、その力強い筆法と彩色の艶麗さが評判となり、それを見た国芳は彼に「芳艶」の号を与えたという。天保年間に作画を始め、若くして武者絵で才能を発揮した。歌川国輝とは良きライバルで、刺青の下絵で競い、芳艶なら「児雷也」、国輝なら「狐忠信」と並び評された。役者絵や時事風俗画、風景画、横浜絵なども手がけた。四五歳の若さで死去。

歌川芳雪

生年不詳
文久年間(1861~64)に没。歌川国芳の門人。通称は孝太郎。一嶺斎と号す。本所一ツ目の船宿、八幡屋の子。作画期は弘化(1844~48)から文久(1861~64)の間で、武者絵を良く描いたが作品は少ない。江戸名所を配した美人画「江戸名所の内浅草」「江戸名所の内王子」などの作例がある。

歌川芳盛

天保元年(1830)―明治18年(1885)
歌川国芳の門人。姓は三木または田口、名は作蔵。一光斎、光斎、さくら坊、櫻ん坊などと号した。幼少時より国芳の門に入り、国芳の画風によく倣った武者絵、戯画、花鳥画などを描き、殊に時局を風刺した合戦絵が得意であった。「ゑぎりす人の図」「五ヶ国」「港崎横浜一覧」などの横浜絵の作品がある。明治以降、一時は内務省に十三等官吏として勤務もしたが、明治18年(1885)に辞職してからは横浜に移り、横浜絵および輸出向けの花鳥画を描いた。享年五六。

歌川芳虎

文政11年(1828)頃―明治20年(1887)頃
歌川国芳の門人。姓は永島、名は辰五郎、あるいは辰之助、辰三郎とも。一猛斎、孟斎、錦朝楼などと号した。十一歳で国芳の門人となり、師が得意とした武者絵に秀で、三代豊国の後を継いで手がけた錦昇堂版の役者大首絵にも力作がある。美人画シリーズや相撲絵、横浜絵なども多く描き、相撲絵は、国芳門人の中で最も多くの作品を残している。明治維新前後の目新しい風俗を描いた横浜絵、開化絵の分野で活躍した。

歌川芳幾

天保4年(1833)―明治37年(1904)
姓は落合、名は幾次郎。画号は一蕙斎、朝霞楼など。明治以降は落合芳幾を名乗る。十七、八歳頃に歌川国芳に入門、芳年とは兄弟弟子である。一時は浮世絵師として芳年と人気を二分する程であったが、新聞人として、また挿絵画家として新聞の発行にもかかわった。芳年との合作「英名二十八衆句」は残忍な描写で話題となった。明治5年(1872)、條野伝平、西田伝助とともに『東京日日新聞』の発起人となり、明治7年(1874)には錦絵版『東京日日新聞』に新聞錦絵を描き始め、錦絵新聞流行の先駆けとなる。明治8年(1875)、『平仮名絵入新聞』(後の『東京絵入新聞』)の創刊にもかかわり挿絵画家としても活動した。

大蘇(歌川)芳年

天保10年(1839)―明治25年(1892)
幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師。姓は吉岡、のちに月岡。本名は米次郎。画号は、一魁斎、魁斎、玉桜楼、咀華亭、そして最後に大蘇芳年を用いた。河鍋暁斎、芳幾、芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に芳幾は「英名二十八衆句」で競作した好敵手であった。歴史画、美人画、役者絵、風俗画、合戦絵などを手がけた。「血みどろ絵」と称される陰惨な描写の作品でも知られる。門下には水野年方がいる。

楊洲周延

天保9年(1838)―大正元年(1912)
豊原国周の門人。姓は橋本、通称は作太郎、諱は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す。越後国高田藩江戸詰の下級藩士橋本弥八郎直恕の長男として生まれる。嘉永5年(1852)十五歳で国芳に絵を学び、十七歳頃から三代目豊国に入門、また国芳門人の初代芳鶴にも師事し二代歌川芳鶴、一鶴斎と称した。その後、豊原国周門下に転じて周延と号した。作画期は文久2年(1862)頃から明治末頃までの約五〇年に及んだ。三枚続の風俗画や美人画を得意とした。明治28年(1895)から明治30年(1897)にかけて、江戸城や大奥の風俗を三枚続の豪華版の錦絵で発行、開化期の婦人風俗画などにも才を見せた。美人画以外にも子供絵、歴史画、役者絵、挿絵などの作品があり、明治の浮世絵界で活躍した。大正元年(1912)死去。享年七五。

宮川春汀

明治6年(1873)―大正3年(1914)
愛知県渥美郡畠村の豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉。明治11年(1878)以降宮川姓を名乗る。明治23年(1890)幼少から得意としていた画業を志し上京、富岡永洗について絵を学んだ。師から「蓬斎宮川洗圭」の名を与えられて明治25年『風俗画報』の挿絵を描き、明治28年(1895)に「宮川春汀」に改名した。明治20年から明治30年代にかけて『風俗通』『美人十二ヶ月』『風俗錦絵雑帖』などの風俗画の他、雑誌口絵、新聞挿絵を描いている。

宮川春汀

明治6年(1873)―大正3年(1914)
愛知県渥美郡畠村の豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉。明治11年(1878)以降宮川姓を名乗る。明治23年(1890)幼少から得意としていた画業を志し上京、富岡永洗について絵を学んだ。師から「蓬斎宮川洗圭」の名を与えられて明治25年『風俗画報』の挿絵を描き、明治28年(1895)に「宮川春汀」に改名した。明治20年から明治30年代にかけて『風俗通』『美人十二ヶ月』『風俗錦絵雑帖』などの風俗画の他、雑誌口絵、新聞挿絵を描いている。

【役者名】

「‐相州 茅ヶ崎 柳島‐藤間家所蔵浮世絵全覧」で掲載されている歌舞伎役者名です。
※年代については順序不同。代および五十音順

・初代市川新車
・初代河原崎権十郎
・初代中村歌女之丞
・初代中村芝雀
・初代中村鶴蔵
・初代中村福助
・初代中山市蔵
・初代坂東亀蔵
・初代坂東しうか
・初代坂東竹三郎
・初代松本錦升

・二代目浅尾与六
・二代目嵐璃珏
・二代目嵐和三郎
・二代目尾上菊次郎
・二代目片岡我当
・二代目片岡我童
・二代目沢村訥升
・二代目沢村源平
・二代目中村富十郎

・三代目嵐吉三郎
・三代目嵐璃寛
・三代目市川市蔵
・三代目岩井粂三郎
・三代目沢村源之助
・三代目沢村田之助
・三代目関三十郎
・三代目藤川花友

・四代目市川小團次
・四代目市村家橘
・四代目尾上菊五郎
・四代目尾上梅幸
・四代目中村歌右衛門
・四代目中村芝翫
・四代目坂東彦三郎
・四代目坂東三津五郎

・五代目嵐小六
・五代目市川海老蔵
・五代目市川團之助
・五代目市村竹之丞
・五代目沢村長十郎
・五代目坂東彦三郎

・七代目市川高麗蔵
・八代目市川團十郎
・八代目片岡仁左衛門
・十一代目森田勘弥
・十二代目市村羽左衛門
・十三代目市村羽左衛門

※代 不明
・嵐雛助
・市川團蔵
・市川團弥
・市川白猿
・市川米十郎
・市村羽左エ門
・河原崎国太郎
・坂東秀調